作家・東峰夫 公式ブログ

東 峰夫 小説家。第33回文學界新人賞受賞、第66回芥川賞受賞。 著書: オキナワの少年(1972) 、ちゅらかあぎ(1976)、大きな鳩の影(1981) 、ママはノースカロライナにいる(2003) 、貧の達人(2004)、『現代の神話シリーズ』執筆中

なぜ人殺しは、いけないのですか?

道理の道筋については誰もがよく知っているつもりでいるが、じっさいのところはどうであろうか?
「なぜ人殺しは、いけないのですか?」と小学生に質問されるとシドロモドロになってしまう先生だっているのだ。知っているはずなのに説明するとなると難しいのである。
「人殺しがいけないなら、大人はなぜ戦争ばかりやっているの?」とつっこまれて、窮地に立たされる。政治家や経済学者に至っては、生存競争を飽くことなく論じる。しかしぼくならそのような質問には、単純にこう答えるであろう。
「人殺しすること。殺せば獣に退化するからだ。せっかく人に生まれたのに獣に逆もどりするのは、もったいないことではなかろうか?」と。
 そう教えれば小学生だって納得するであろう。「人を殺せば天罰を受けるから」とか、「宇宙神が殺してはならないと戒めたから」とかと説明してもよいが、獣の道を歩む者には分からない。

~天から町がふってくる[新しい市民生活場の理念](執筆中)より~

[描く]と[書く]

そのことについて考えるよう、しきりに促されていた。[描く]と[書く]の類比について熟考しなければならない。ぼくに憑いた言霊にそれを督促されているのだ。

描くとは筆や刷毛などでペインティングすることだ。キャンバスや画用紙にペイントするのである。建物にペンキを塗ることもペインティングという。塗装工のことをペインターともいう。他方、書くといえばノートにインクで記すことだ。英語ではライティングという。著述家のことをライターともいう。

確かにそれは似ている。ペンを用いるところは違うが、昔、日本では文字も筆で書いていたのであった。いずれにせよ、対象を描くか書くかして表現し、紙の上に定着するわけである。定着するという意味では同じである。もちろん文字で定着するか、塗料で定着するかの相違はあるが、インクのことを塗料と見なせば同じことになる。

だが、文字を塗料と見なすことはできるであろうか? インクや墨汁や、絵ノ具やペンキは塗布材料なのだが、文字言語もそうであろうか? 言語を四八色の絵ノ具と見なせるであろうか? いや、言語は絵ノ具じゃないと思いたいところだが…と考えたのだった。

~天から町がふってくる[新しい市民生活場の理念](執筆中)より~

天空の建設用地

空想をバカにしてはいけない。そんなことをしたら想像力が衰退して、創造力を失ってしまう。心理次元では想像はそのまま創造に結びつくからである。


魂としての青年時代にも、ぼくは飽きるほど夢想したものであった。
いうまでもないことだが、青年の夢想には決まって異性が登場する。そしてはかない恋愛も自由奔放な性愛も想いのまま。寝食を忘れて夢想し、痩せほそるほど空想して、ハアーと溜息をついたものであっだが、それによって人生のあらましは見えてしまった。
働いて稼いで、結婚して所帯をもって、子育てして年老いて、年老いて昇天する。一夜の夢想で一生がおわった。一年間で三百回も生涯を終えたのだ。大抵が似たりよったりの生涯であった。それに貧乏人の未来は確定済みでもあった。だから天の父神に祈っていったものである。


「あーあ、父なる神よ。ぼくは自分の人生に飽きあきしてしまいました。ほんとにあっけないほど詰まらないからです。詰まらなくないものにするために、いったいどうすればよいのでしょうか? 資本主義の終焉も近いというのに、何のビジョンもありません」
そこで父が夢枕にあらわれた。いっしょに宇宙へと雄飛したのである。それが祈りへの答えであった。その内容は次のようなものであった…


~天から町がふってくる[新しい市民生活場の理念](執筆中)より~

母と地均しの現場

「平和と安寧の基礎は何だろうか?」とまずは想った。その答えはすぐに出てきた。
「それは四つの愛である」と。それがなくて平和も安寧もぜったいに実現しないはずだ。[心をつくし思いをつくして、主なる神を愛せよ]と兄は教えてくれた。また[己のごとく隣人を愛せよ]とも教えてくれた。それが親子愛と隣人愛である。その二つの愛に、結婚愛と主従愛を加えて、それを四隅の基礎とすべきではなかろうか?と推量した。
 基礎にそって壁が築かれる。それは内部の平安を守るための防壁である。城塞のような構築物だから防壁も必要であろう。とにかく都市の基礎は[四辺に据えた四つの愛]ということにして、とりあえず固めておいたのだった。

~天から町がふってくる[新しい市民生活場の理念](執筆中)より~

父が見せてくれた図面

ぼくは夢見る者である。それは将来の夢という意味での夢である。昼日中でも白日夢のように夢見ている。いつも未来像(ビジョン)を見ているのだ。もちろん睡眠中の夢だってよく見るのである。一日に十時間も眠って、夢を見ては記録し、そしてまた眠る。睡眠瞑想と称して夢想にひたり、ありありと彼岸の霊魂たちの活動ぶりを見るのである。テレビを観るのと同じである。だから夢テレビと称している。
 そして夢想によって想像力の中枢は鍛えられた。そうなると回想も予想も、着想も構想も想いのままである。[なべての芸術家は、すべからく夢想家であるべし]というのがぼくの持論である。そんなふうに睡眠瞑想と夢想三昧で、十年を一日のごとく過ごしてきた。
 夢想は子供の頃からの癖であった。それが高じて想像中枢の能力が発達したものと思われる。で、想像力中枢には神からの想念がキャッチされ、テレビに映像が受信されるみたいに映像が脳裏のスクリーンに投影される。まさに[夢テレビ]である。ぼくのアパートに普通テレビはないが、夢テレビはあって超現実の神々から、たえず情報が送信されてくるのである。かくして垣間見えた未来像があったのだ。
「だろうな。貧窮による餓死が…」と読者は思うであろうか?
「いや、そうじゃなく、近未来が視えてきたんだ」とぼくはいう。
 夢テレビに没入すれば、誰だって超現実の天然世界を見ることができ、未来だって知ることができるのである。なぜなら未来は神々の事業計画(プログラム)によってつくられるからだ。
 現今は情報が氾濫する時代である。そこで必要な情報と、そうでない情報を分別し、取捨選択しなければならない。洪水のように押し寄せる情報の中で、溺死したりしないためである。権力者に追従するマスコミ人が垂れ流す情報は、昨日の新聞といっしょにゴミに出して、きれいさっぱり忘れなければならない。
そんじょそこらのヒト科動物が発する情報というのは、大抵が下口から出たウンコのように悪臭芬々(ふんぷん)とした情報である。そんな情報を摂取していたら破滅する。たとえ一万回転生しても同じ結果となるであろう。それが夢想家の単純な結論であった。
「自分は自分、他人は他人」と呪文のように唱えながら、デマ情報は惜しみなく捨てた。自分にとって大事な情報だけを記録し、何度でも再生して推量した。そんなふうにして父や母、兄や姉、祖父や伯父が登場して伝えてくれた夢テレビの情報は、ちゃんと記録し、それに基づいて考えるよう努めてきたのだ。


~天から町がふってくる[新しい市民生活場の理念](執筆中)より~

天から町がふってくる

もしも天から町がふってくるとしたら、どういうことになるであろうか?
「バカバカしい。そんなことありえないだろ?」と誰もがいうに違いない。
「何? 天から町がふってくるだと? 愚にもつかないことだ」と嘲笑する者もいるであろう。しかしながらヨハネの『黙示録21・1』には、天からふってくる町のことが、次のように書いてあるのだ。
[わたしは新しい天と新しい地を見た。(中略)、また聖なる都、新しいエルサレムが夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを出て天から下ってくるのを見た。すると玉座から大きな声が叫ぶのを聞いた。『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神は人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を拭いとってくださる。もはや死はなく悲しみも叫びも痛みもない。先のものが過ぎ去ったからである』]
 ぼくは中学一年の頃、これを読んでびっくりしたものであった。不思議なことだと思った。聖なる都は花嫁のように着飾っているという。しかもそれは神が人々のうえに覆い被せる幕屋(テント)でもあるという。ほんとうに謎にみちた言葉だった。それ以来、その都について考えてきた。
(都とは象徴に違いない。だとしたら何を象徴しているのだろうか? それを解読したいものだ)と思って考えつづけてきたのだ。
(天から聖なる都がふってくる時、加速度がついて空気摩擦で発火するのでは?)
(巨大隕石の落下と同様、地上に大災害をもたらすことだろうよ)
(それより何より、天空に都市を建設すること自体、はたして可能なのか?)
 そんなことまで想って疑念を抱いたものだった。きっと読者も同じであろう。
だが、心配無用である。[天]とは心理次元にある天然世界のこと。あるいは彼岸のことだ。また[都市]とは[市民生活場の理念]のことである。比喩象徴を解読すると、そういう意味になる。つまり[心理次元の彼岸から、新しい市民生活場の理念がふってくる]ということなのだ。理念のことをギリシア語ではイデア、英語ではアイディアという。それなら別にどうってこともないであろう。アイディアはいつの時代にも、天からふってきたのではなかったろうか? 真摯な芸術家は天からのアイディアを受けとめて、創作してきたのではなかったろうか?
(そうであればその理念とは、どんな内容であろうか?)と興味がわいてきた。
(もしもアイディアが天からふってくるなら、しっかりとキャッチしたいものだ)と、そう思うようになった。


~天から町がふってくる[新しい市民生活場の理念](執筆中)より~

果樹と[果物]

《野生の樹木から、よい実を結ぶよい木を選んで、精神の畑地に植えて、手塩にかけて改良したのが学識果樹である。その果樹の成果を[真実]という。真実が現実に優るのはいうまでもない。じっさい現実の成果は酸っぱかったり渋かったり、時には虫食いだったり腐っていたりして、山猿や野鳥の餌であって、人間の口に合うものではない。他方、真実の成果は大きくて甘く、香りはゆたかで美味しいのである。子供たちは何よりも、そんな果物が大好きである。(中略)

[学識の果樹=真実の成果=天国の果物]と結びつく。天然世界にはいろんな学識果樹があり、いろいろな果実がタワワに実っている。おそらく未来の自然地球にも、さまざまな真実の成果が実って、新人類はそれを常食とするようになるであろう。心の健康にとってそれはよい食べ物だからである。真実の果実を食するようになったら、だれもが天使みたいな存在になれるのだ》

~ 『奥村にて』真実の成果について(執筆中)より~