作家・東峰夫 公式ブログ

東 峰夫 小説家。第33回文學界新人賞受賞、第66回芥川賞受賞。 著書: オキナワの少年(1972) 、ちゅらかあぎ(1976)、大きな鳩の影(1981) 、ママはノースカロライナにいる(2003) 、貧の達人(2004)、『現代の神話シリーズ』執筆中

トラウマの古傷

ヒト化動物には自らの生活環境に対する主観的な認識があって、その成果が現実となっている。それゆえ社会観も人生観も世界観も単一ではない。各々の観念によって多くの世界が並存してあるのだ。もっといえば魚人間には魚的現実があり、獣人間には獣的現実があり、家畜人間には家畜的現実があるということ。個々人は各々の世界観の中で生活していて、十人十色の生活世界を一つの世界観で引っ括ることはできない。 

それに生活環境は自らの意志や願望によって、いくらでも変えることができる。そして環境を変えれば生活が変わり、生活が変われば世界観も変わるのである。もちろんそれはこの世からあの世へと転入した場合にもいえることだ。

いずれにせよ、諸々の観念は心理次元に在って物理次元には無い。観念は肉眼に不可視の非物質なので、万人共通の観念を創ることは難しいのだ。マスコミによって規格化して統一しようというなら別だが…。

~②現代の神話シリーズ 『天魚大概論』(執筆中)より~

泉の側の草庵

自由奔放なる空想ほど楽しいことはない。光子天使の活動と同一のレベルにあるからだ。光子天使たちは意識の大気中を飛翔して活動している。天使たちにまじって飛翔すれば太陽神の理念(イデア)が分け与えられるというもの。かくして着想や構想、回想や予想、夢想や理想を胸いっぱいに取り込むことができるのだ。それゆえ空想をバカにしてはならない。それによって創造力が鍛えられるからである。

~②現代の神話シリーズ 『天魚大概論』(執筆中)より~

質を売って量を売るな

「大事なことがまだ二つある」

「え?何でしょう?」

「それは質を売って量を売るなちゅうことじゃ。昔々、あるところに石屋がおってな。山から石を切り出して売っておった。良質の石はよく売れたものじゃから、切りにきり売りにうったら石が無うなってしもうた。山の石がぜーんぶ売り切れてしもうたんじゃ。結果、仕事も無うなった。生活は預貯金で安楽ではあったが仕事の楽しみは無うなった。

石屋は石を切って売るより他に何もできんから、毎日ぶらぶらと歩くばかりじゃった。ところがある時、切り出して売った良質な石が砕石となって敷かれとることに気がついたんじゃ。大量に出まわった石は値打ちがさがり、砕石にされて道路に撒かれたのじゃろう。そこで石屋は嘆いていうたんじゃ。『あー、あの良質な石が足に踏まれとるとは何たることか。石は質を売って量を売るんじゃなかった』とな」

~②現代の神話シリーズ 『天魚大概論』(執筆中)より~

水槽の中の天魚

夢テレビを見てあの世の異境に潜入し、そこで体験したことを記録し、それをつづり合わせて現代の神話物語とするには、多少の潤色が必要なようだ。もっとも【潤色】には[事実を誇張したり、事実でないことを付加したりすること]という意味もある。しかしぼくはそこまではやらないつもりだ。嘘偽りは嫌いだからである。

~②現代の神話シリーズ 『天魚大概論』(執筆中)より~

なぜ夢を見るのか?

この作品は夢テレビで見た情報を題材にして書いた物語である。ちょうどよい具合にぼくには現実に絶望しているという好条件があった。自分のどう仕様もない前途を悲観して、頭から夜具をひっかぶってふて寝を決めこむことがしばしばであったのだ。そのような状態の自分はまさに閉じこもりの自閉症。現実不適応の隠遁者。放浪する世捨て人であった。

~②現代の神話シリーズ 『天魚大概論』(執筆中)より~

夢テレビについて

夢の中でむなしく情報を放散させていたテレビは、いろいろと考えさせてくれた。通りすがりに点けっぱなしのテレビを見たという、たったそれだけの夢だったのだが、じつはある特別な情報を伝えていたのだ。

「夢テレビの情報を無駄にするな」というのがそれであろう。

ぼくは夢テレビをこそ好きになって、それに没頭しよう思った。

~②現代の神話シリーズ 『天魚大概論』(執筆中)より~

進化?それは変身のこと?

そう。それは転身のことでもある。人間の肉体は動物から進化した。そのことは知っているね?そして光の天使と共振共鳴しながら知能と情能を発達させて人の子となったのだ。しかし細胞には遺伝情報が刻印されているので、迂闊にすると増長し肥大して、畜生道を歩んでしまうのだ。だから心性によって制御操縦しなければならない。そうすることで心性は鍛錬されて発達するんだ…

~①現代の神話シリーズ 『かつてぼくは羊だった』(執筆中)より~